西田書評研究2ユリイカ文体とは

さて、後編だ。

細かくやろうと思えば、いくらでもできてしまうので、だらだら書かないようにする方が難しいな。

実は、にゅうもん!にもユリイカ文体に近いものがある。第十五回ケンリュウ紙の動物園だ。

両方の冒頭を引用しよう。

だから嫌な予感がしていたのだ、と私は後悔した。心の奥底が揺り動かされるかもしれないという予感。要は、感動作だったのだ。しかし、私は感動が嫌いなのだ。無理やり心が揺り動かされるんだから、反動が起こる。

これを失恋に狂うゴジラと比べてみたい。

公開日までは、私も他人事でいられた。しかし、封切られてからは、あの熱狂と無関係ではいられなかった。社に構えていたわけではない。SNSの人気に影響されて足を運ぶことはままある。しかしあの映画はいつものそれとはまた違った。

どちらも、意に反して心が動かされた、という状況だ。

でも、にゅうもんの紙の動物園には強い反発があるのに対し、やはりユリイカの失恋に狂うゴジラは受け身に見えてしまう。

実はこの二つは同じ切り口で評されていて、混血である故にどちらにも属せない属せる者、というものだ。

これが西田さんの書くものののテーマとして極めて重要なもののひとつであることは、一度本ブログでも書いたが、この二つを並べると、さらに複雑な構図が見えてくる。

紙の動物園の主人公は二つの血のうち片方を否定するのだが、西田さんはその事自体は是認できないとしないながらも、彼がそうするのもわかるとして、擁護する。

シンゴジラのカヨコアンパタースンは、二つの血があるからこそ、アメリカ的なものを持って日本に入り込む事ができた。これを西田さんは讃えつつ、そこには羨望、もっと強い言葉を使えば嫉妬、が垣間見える。3

この失恋に狂うゴジラには、セクシャルな要素は皆無だ。テーマとしては、絶望的な状況でも絶望せず、為すべきことを責任を持って実行した人による、希望と再生の物語だ。

それでも、西田さんの文章にはダークな要素が滲む。

その物語がとても美しいから、素晴らしすぎるからこそ、彼我の間の距離に想いを馳せ、身悶えするような文章を綴る。

同じテーマで、同じ内容をSFマガジンに書くことはできるだろう。でも、たぶん同じような文体にはならない。

僕の一番好きな部分を引用しておこう。

でも現実世界にゴジラはやってこない。カヨコみたいに都合のいい米国人がやってくることもないだろう。私たちが私たちの力、でスクラップアンドビルドできる気もしない。ああ、夢物語であると、見せつけられたような、この美しさは、願望であって、日本は立て直せるのだと思いたいし、素晴らしき人による滅私奉公は、とてもとても美しい。

この段落は4文。前半2文は短めで読点がない。3つ目の文には一個、それも助詞の手前で体言止めになるように。4つ目の文は最も長く、この段落の半分を占めていて、読点は七個、ほぼ文節ごとに入っているが前半に五個、後半に二個。

声に出すと良く分かる。最初は流れるように、真ん中は文節ごとに強調して、後半はなめらかに加速しながら、最後のフレーズの前でひと呼吸おいて、とてもとても美しいを際立たせる。

きっちり計算されたものとは思わないが、このリズムは本当に良いなあ。

最後に、西田さんの絶賛と混乱を描いた、二つの文章を比べてみようと思う。

ひとつは、ユリイカにおける西田さんの最初のお仕事である、武田百合子特集の遊覧しよう。

もうひとつは、同じく女性作家で、系統は全く違うけれど、同じように情景描写が素晴らしい、にゅうもん!第十四回コニーウィリス航路だ。

ああ、うん。ちょっと無理矢理感があるのは認めるよ。4

この遊覧しようだが、少し前にこれについて書いたとき、西田さんが楽しげに書いている、とした。もちろんその通りなのだけど、終始そんな感じにはならない。5

わたしはたまに疎外されたように感じる。その場所にいる人間として正しいのか自問自答する。次第に立ち眩み、歩みを止め、隅に寄るも、目前を流れる正しそうな人間の波に卒倒しそうになる。そんなぴかぴかの空間ではない、整えられていない人間の営みにほっとする。

にゅうもんの航路では、時折おちいるという自分でコントロールできない過集中について、述べられている。

ひたすら、走って走って走って。ああ、あの、頭が冴え渡るような感覚。たとえ幻想だとしても、あの、素晴らしさがずっと続いたとしたら。ジョギングは快感物質がたまらないからやめられない、なんて話を聞くが、本の中で走り回れば走り回るほど、なにかが、ほとばしりそうな気がして

この二つは単純に比べられるものではないけれど、どちらも構図として、そのようなキツい状況を、この本に救われた、というような展開になる。

ここは、むしろシンゴジラと比べるべきかもしれない。というのも、航路の登場人物たちは、厳しい状況でも冷静かつ即座に正しい決断をし続け、絶望的な状況から希望を掴み取るのだ。そういう意味ではシンゴジラ的とは言える。

そして西田さんは、シンゴジラでは、そこでポジティブなものを素直に受け取れなかったように書き、航路では、そこから救われている。

これがユリイカと、にゅうもん!の違い、とするのは安直だろうか。うん、ちょっと安直だな。

でも、不思議なぐらい、この二つの記事の結びは似ていて、全く違うのだ。

遊覧しよう

武田百合子と歩いたのは、わたしが生まれる前の街。

この本を片手に、現在の街へ向かおうか。遊覧しよう。日常は、怖くない。一人でもいいし、同行者を募ってもいい。まだ残されているはずの、生しい匂いのある場所へ。

にゅうもんの航路

時間は頭の中で勝手に伸び縮みしている。脳は勝手に感覚を作り出す。記憶は事実と異なる場合がある。そして、自分にも他人にも自由意志がある。恐ろしいが、生き続けるしかない。ジョアンナは、共に走り抜いたジョアンナは、私のことも、救った。

この雰囲気の違いを感じてもらえるだろうか。

ユリイカ文体の柔らかさ。最後に生しい匂いという単語が入ると、ちょっと官能的に感じられるのだ、僕には。

この場合の官能的に、というのは性的な意味を含まない。

いくらでも言えてしまうので、この辺りにしておこう。

ただ、西田さんのユリイカの文章は、柔らかさ、湿度、なめらかさなど、肌感覚に訴えかけるものだと思う。これはなかなか独特のものだ。

ああ、こういうのを、もっと読みたい。

3これは言っておかなければならないが、西田さんの羨望、嫉妬はカヨコに対してというような単純なものじゃなくて、彼女を取り巻く人と社会をひっくるめてのものだ。

4本当は状況的にwebちくまの笙野頼子作品についての評と比べたかったのだけど、あの文章は西田さんが笙野文体を真似て書いているので、比較対象としては最も不適当なのだ。

5西田さんが、一人称を私ではなくわたしと書くのはとても珍しい。ていうか、他にあったっけ?